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【特別寄稿】ニホンジカ・カモシカ識別キットの活用法 ―シカを対象とした野外調査の事例-

【特別寄稿】ニホンジカ・カモシカ識別キットの活用法 ―シカを対象とした野外調査の事例-

国立研究開発法人 森林研究・整備機構 森林総合研究所 東北支所
生物被害研究グループ長 相川 拓也

1. はじめに

 ニホンジカ(以下シカ)(写真1)は日本を代表する大型野生動物です。このシカが、今、急激な勢いで増えています。
  最新の統計資料によると、2019年度における本州以南のシカの推定個体数は約189万頭となっており、1989年の約26万頭と比較すると、この30年間で7倍以上に膨れ上がったことになります(環境省 2021)。この急激なシカの増加により、日本各地で食害による自然植生の崩壊や農業・林業被害が増加しており、今やシカ問題は待ったなしの状況です。

写真1:シカ(岩手県釜石市)

2. 増える前のシカ対策の必要性

 現在、シカ対策が広く実施されているのは、シカの急増により著しい農林業等の被害が発生している高密度地域が中心です。しかし、一度増えてしまったシカを減らすことはそう簡単ではありません。また、シカを減らす努力だけではなく、シカ柵やツリーシェルターの設置など、シカに農作物や植栽木を食べられないようにするための保護対策も並行して行う必要があり、コストはさらに膨らみます。
 このように考えると、シカが増えてしまってからではなく、シカが侵入してきた直後の増える前の段階で対策を講じることがとても重要であると言えます。

3. 少数のシカをどうやって見つけるのか?

  シカの密度が低いうちに対策を講じるには、その数少ないシカがどこにいるのか把握する必要があります。ですが、広大な森林の中で少数しか生息していないシカを見つけるのは容易なことではありません。人間が山の中を歩き回ったところで、警戒心の強い少数のシカを発見することなどほぼ不可能です。
  では、どのようにすれば、その居場所を突き止めることができるでしょうか?最も大きな手掛かりは彼らが残した“痕跡”です。地面に落ちている糞やシカによって食べられた植物痕(食痕)を探し出して、そこにシカがいたことを証明します。
  しかし、シカと同じような食性を持ち、同じような形の糞をする大型哺乳類が他にもいます。それがカモシカです(写真2)。カモシカは国の特別天然記念物に指定されている野生動物であり、また、シカのように大きな群れを作らないので農作物にそれほど甚大な被害をもたらしません。よって、シカの痕跡とカモシカの痕跡は明確に区別する必要があります。しかし、食痕や糞粒の形で両者を明確に識別することは極めて難しいと言えます。そのような時に役に立つのが「ニホンジカ・カモシカ識別キット」です。
  シカやカモシカの食痕部分には唾液由来のDNAが、また、糞の表面には腸管粘膜由来のDNAが付着しています。このキットでは、それらのDNAを利用することで、その食痕や糞がシカのものなのか、あるいはカモシカのものなのかを特定することができます。以下にその手順を簡単に説明します。
  本キットでは、シカ用反応液とカモシカ用反応液の2種類の反応液を作成する試薬が添付されており、それらの反応液に食痕あるいは糞から抽出したDNA液を添加します。検査した痕跡がシカ由来の場合はシカの反応液の色が、また、カモシカ由来の場合はカモシカの反応液の色が淡い赤色から鮮明な黄緑色の蛍光色に変化します。この反応液の色の変化によって両種を識別することができます。
  詳しい使用方法については本製品のホームページ をご覧ください。

写真2:カモシカ(青森県むつ市)

 

4. 痕跡を利用したシカの生息調査の事例

 このように、シカが侵入し始めたばかりの分布の最先端地域、あるいはシカの密度がまだ低い状態にある地域において、シカの生息場所を明らかにするための手段として本キットは威力を発揮します。しかし、シカの個体数が少ないわけですから、やみくもに山の中に入ってシカの痕跡を探しても簡単には見つかりません。私たちの研究グループでは、このような低密度地域におけるシカの生息場所や活動拠点を把握するための方法として、いくつかの調査を実施しています。以下にその事例をご紹介します。

・既知のシカ目撃情報を利用する

 シカが増加しつつある地域では、一般市民から寄せられるシカの目撃情報を取りまとめ公開している自治体が多くあります。またスマートフォンのアプリを利用して簡単にシカの目撃地点を登録・閲覧できる「シカ情報マップ」 の運用も近年始まっています。まずはこれらの最新の情報にアクセスし、シカがどの場所で多く出没しているのかを知ることが大切です。
  ただし、これらの目撃情報は、幹線道路や民家のまわりなど人間の生活環境周辺であることが多く、決してそこがシカの活動拠点であることを示しているわけではありません。よって、その出没地点を中心とした周辺の森林を探索することになります。目撃の頻度が高い場所ほど、その周辺の林内で獣道が見つかることが多いので、その獣道沿いに痕跡を探します(写真3)。
  もし、その獣道で食痕や糞が見つかり、それらからシカの反応が出れば、シカがその場所を利用していたことがわかります(写真4)。また、食痕が面的に広がっているような場所があった場合は、その場所をシカが採餌場として頻繁に利用していたことを示すサインになります(写真5)。
  そのような場所に自動撮影カメラなどを設置することで、シカが出没する頻度や時間、そして頭数なども確認できるかもしれません。

写真3:林内に見られる獣道の例

 

写真4:獣道沿いの植物に見られる様々な食痕
A:アカソ、B:ニワトコ、C:ハリギリ、D:ミツバウツギ

 

写真5:シカによって面的に広く食べられていたヨウシュヤマゴボウ

 

・シカの越冬場所を探す

 冬の間に雪が多く積もる地域では、シカは深雪や北風などの厳しい環境を回避し、過ごしやすい場所(越冬場所)に集まる習性があることが知られています。もし、冬場にシカが集まるこの越冬場所を利用して捕獲ができれば、それは雪国ならではの非常に効率的な捕獲方法となり得ます。そのような越冬場所を突き止めるためのツールとしてこのキットを使います。
  冬になると落葉樹は葉を落とし、下層植生も枯れて多くが姿を消します。よって、冬の間シカが餌資源として利用できる植物は著しく限定されます。地域によって違いがあると思いますが、私たちが調査している北東北では、冬期間の餌としてササ(写真6)やハイイヌツゲがよく食べられる傾向があります。
  雪が降り積もっている間は山の調査はできませんので、雪が解けた4月から5月頃に、大規模なササの食痕、あるいはハイイヌツゲの食痕がある場所を探し、その食痕からシカの反応が出れば、冬の間シカがその場所を越冬場所の一部として利用していたことを証明することができます。

写真6:冬の間シカに食べられたクマイザサの食痕4種類

 

・農作物や植栽木に注目する

 森林の中に茂っている木本植物や草本植物をシカが食べていたとしても、それに気が付く人はほとんどいないでしょう。しかし、畑で育てている農作物や山に植栽した苗木などは、人が自らの意思で種子をまきあるいは植えているわけですから、それらが食べられた時は容易に気が付くはずです。
  このように、人が目にしやすい作物や苗木の食痕を検査の対象とすることで、シカの存在をいち早く察知することができます。これらの食害情報は、農家さんや林家さんあるいは農協や森林組合等、日ごろから現場で活動している方々から直接提供してもらうのが理想的です。また、それらの情報を集約している都道府県の担当部署と連携して対応する形でもよいでしょう。
  古くからカモシカが生息している東日本では、多少の食害が出ても「カモシカによるものだからたいしたことはない」と見過ごしてしまいがちです。しかし、思い込みは禁物です。シカの分布が急速に拡大していることに気づかず、調べてみたら実はシカによる食害であったということは起こり得ます(写真7)。また、その逆で、シカに食べられたと思っていた作物が、実はカモシカに食べられたものだった、ということもあり得ます(写真8)。食べた動物の正体を正確に把握するには、食べているその現場を目撃するか、その痕跡から突き止めるかのどちらかしかありません。シカの個体数が増え、大切な作物や苗木に甚大な被害が出てしまう前に、いち早くシカによる食害を検出し、シカ対策を講じていくことが大切です。

写真7:近年、シカが出没するようになった地域の水田
あまり目立たないが、かじり取られた稲穂や葉が複数見つかった(A)。食いちぎられた稲穂(B、C)、食いちぎられた葉(D)。
検査の結果シカによる食害と判明。

 

写真8:雪解け後に現れたキャベツ畑
収穫されなかったキャベツがそのまま残されている(A)。残渣キャベツに見られた新鮮な食痕(B)。
検査の結果カモシカによる食害と判明。

 

5. おわりに

 本キットを使用した野外でのシカ調査の事例をいくつかご紹介しました。基本的に、シカの侵入が始まった初期段階の地域やシカが低密度で生息している地域で使われることを想定した製品ですので、既にシカが多数生息している地域では、本キットを使用する機会はあまりないかもしれません。
  しかし、農作物などの食害がシカによるものであることを明確に示したい、あるいはその証拠を残したい、という時には本キットを使う意味があると思われます。
  また、今回はシカの存在を探るための調査について記しましたが、本キットではシカ用反応液だけでなくカモシカ用反応液も作成できる仕様になっていることから、シカだけでなく、カモシカの生息調査用ツールとしても使用できます。
  これまでのシカあるいはカモシカの痕跡調査では、どうしても「シカの食痕だろう」あるいは「カモシカの糞だろう」という推測の域を出ない事例もあったかと思います。しかし、本キットを使用することによって、その推測が「シカの食痕である」あるいは「カモシカの糞である」という断定に変わります。シカの痕跡なのかカモシカの痕跡なのかが明確に区別できるようになったことで、これまで知られていなかった両種の新しい生態をうかがい知ることができるかも知れません。

*写真提供:森林総合研究所 相川拓也 先生

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